共産主義者同盟(統一委員会)






■政治主張

■各地の闘争

■海外情報

■声明・論評

■主要論文

■綱領・規約

■ENGLISH

■リンク

 

□ホームへ

  
  
  
■『戦旗』1610号6面

  『国家と革命』を今改めて読み直す

                                宮下圭子





 私はこのたびレーニンが一〇月革命の直前に著した『国家と革命』を再読し、それについて一文を書く機会を得た。およそ共産主義者たる者にとって、国家をどう把握し、革命をどうやるのかは最重要の課題である。このテーマについての導きの書として多くの革命家たちが読んできた本書を読み直して、私自身が革命家たらんとする者として考えさせられたことを以下に書いていく。


●1章 レーニンが強調したもの

 『国家と革命』のなかで、レーニンが再三強調するのは、ブルジョア独裁の国家に幻想を抱くことの誤りであり、出来合いの国家機構を打ち砕き、プロレタリアート独裁を樹立することの必要性である。彼は、明確に「国家は、階級対立の非和解性の産物であり、その現れである」とはっきりさせ、そこを曖昧にした日和見主義者の潮流を弾劾し、さらに社会に対して国家が上に立つ権力としての性格をますます強めるなかで暴力革命なしには被抑圧階級の解放はあり得ないと断言し、国家の暴力装置に対抗し、国家機構を粉砕するための人民の武装の必要を明確化する。
 「プロレタリア国家のブルジョア国家との交代は、暴力革命なしには不可能である」。そこでは、パリ・コンミューンの経験をも踏まえたマルクス及びエンゲルスの国家論が度々引かれており、両者の国家論を歪曲して、暴力革命なしでも労働者階級の解放が実現できるかのような言説との対決がはっきりとさせられている。


●2章 現代における課題

 レーニンの国家と革命についてのこのような把握は今日の日本における状況を見る上で非常に教訓的である。近年、マルクスについて語られることがジャーナリズムでも多くなってはいるが、そこで語られるマルクスは単に資本主義社会がもたらす貧困・失業・気候変動の問題を研究した人物として過小評価されており、彼が革命家であり、暴力革命によるプロレタリア独裁の実現を労働者階級の解放の条件とした点が抜け落ちている。
 ベストセラーになった斉藤幸平の『人新世の資本論』などはその典型であり、出来合いの国家機構を打ち砕くのではなく、これを活用して気候変動に対処しようなどというまさにレーニンが言う所の「超階級的な国家の承認と不可分にむすびついたこの小ブルジョア的空想」に陥っている。最近は盛んにマルクスのアソシエーション論なるものが語られるが、賃労働制と生産手段の私有を廃絶することや既存の国家機構の破砕の問題が曖昧化されている。
 ブルジョア社会の枠組みでのアソシエーションづくりなど、単なる私企業の一種になるか閉鎖的なセクト主義的集団を生み出すかのどちらかではないだろうか。同心円状にアソシエーションを拡大することは革命ではない。レーニンは『国家と革命』の第一章の冒頭で、マルクスの学説の革命的な部分が切り捨てられ、ブルジョアジーに受け入れられるように改竄されている状況を告発するが、これは今日の課題でもある。


●3章 プロレタリアートの独裁

 革命の実現にあたっての物理的な力の重要性は避けて通れない問題である。暴力革命に対してブルジョアジーは必ずや抵抗するし、プロレタリア国家の外部からの帝国主義者による干渉も十分あり得る。それに対抗し革命国家を防衛するためのプロレタリア独裁は不可欠である。レーニンはパリ・コンミューンに関しては、搾取者の反抗を十分に抑圧出来なかったことをその破産の理由に挙げ、「階級闘争の承認をプロレタリアートの独裁の承認に拡張する人だけが、マルクス主義者である」と規定する。革命をやるにもプロレタリア国家を防衛するにも物理的な暴力は不可欠である。
 ここをきちんと把握出来ずに即時国家廃止を唱えるアナキストの主張をレーニンは論駁するが、この点も今日の日本では大事な観点となる。およそ小ブル自由主義的な内実でしかないただ暴れろ式の自称アナキズムが流行したりする他、国家権力に従属することもこれを奪取することをも拒否することがラディカルだと考える潮流がノンセクトを自称する左翼のなかに一定数散見される。そうした人々は大概ロシア革命を否定的に捉え、革命党派と民衆の運動をことさらに対立的に描いたり、後継者たちによってマルクスが歪曲された云々の議論を展開したがるが、現実にロシア革命を実現に導いたのはアナキストではなく、ボリシェヴィキであり、レーニンはマルクスとエンゲルスの国家論を自身の導きとしているのである。
 何より、国家を廃止するといっても、ブルジョア階級の力が残存している状態では、短期間のうちに、ブルジョア独裁による国家が復活することを防げない。国家を必要としない諸条件が社会的諸関係のうちに形成されてこそ、はじめて国家というものは不要になるのであって、だからこそわれわれ共産主義者は国家の即時廃止ではなく、国家の死滅を目指すのである。


●4章 ブルジョア民主主義の幻想

 賃金奴隷制のもとで多くの住民が政治どころでなく、選挙制度自体が不公平であり、「真の『国家』活動は舞台裏で行われ、各省や官房や参謀本部が遂行している」のがブルジョア国家であるというのがレーニンの認識である。これは現在の日本でも基本的には同じである。政治的な運動に関わる時間を多くの労働者が私企業による搾取で奪われている。選挙に立候補できるのは金と組織の力に恵まれた人間だけで、日本国籍がなければ何年住んでいても選挙には参加できない。
 社会主義を志向すると言いながら、「野党共闘」での政権交代だけが社会を変えると頑なに信じている人も多いが、ブルジョア選挙の結果から出てくるものはほんの表層の張替えでしかない。そもそも選挙で社会主義建設が開始された例など歴史上存在しない。チリのアジェンデ政権が軍のクーデターにより転覆させられた事例は大きな教訓である。すべての被抑圧階級が国家の運営に参加可能となるプロレタリア民主主義への暴力革命による交代のみがこの現実を根底から変えていくのである。


●5章 プロレタリア民主主義の実現

 その一方で、『国家と革命』には、今のわれわれがより深く考えなければならない課題が存在するのも事実である。レーニンはプロレタリア独裁のもとでは、国家の諸機能が統制・記帳といった単純な作業に転化され、すべての住民が参加できるものとならなくてはならない、と論じ、生産活動についてもすべての人が自主的に管理出来るようになることを目指す、とする。だが、現代のように非常に複雑な技術を利用することで成立している国家機構の業務をすぐ誰でも出来るように単純化するのは恐らくは不可能だろうし、生産活動についても同様である。革命後のロシアにおいても専門知識を有するインテリゲンチャが国家の運営には必要とされ、それが官僚統制を生みだした。
 その課題を克服するには、専門知識を有する者が必要以上に権力を持つことを防ぐ措置が必要である。ブルジョア国家におけるように一部の人間しか質の高い教育が受けられない状況を根本から是正し、教育を受けたり、知識を得る機会が十分に確保されるべきである。
 また、何よりも能力というものを個人単位に帰属するものと捉えて、人を選別する能力主義的な価値観・文化が、社会全体で問われていかなくてはならない。社会的な取り組みを行うことで各人に国家運営の権利が保障されないといけないはずである。これは『国家と革命』のなかでの議論には出てこない障害や病気を持つ人々への差別をなくしていく取り組みともつながる問題である。


●6章 差別排外主義をいかに変革するのか

 レーニンは、ブルジョアジーによる搾取が消滅し、その後権威と服従なしに人々が自主的に生産を管理出来るようになれば、共同生活の規則を守る習慣が人々に身についてくる、とするが、差別・排外主義的な文化・価値観についてどう克服するのかの道のりは描かれていない。
 社会主義を目指すとした国家でセクシャル・マイノリティーが迫害された歴史からも分かるように、ブルジョア国家のもとで形成された差別社会の悪習はただ国家機構を粉砕するだけでなくなることは考えにくい。差別的な諸制度を変え、差別問題についての学びを全住民が深められるような社会にしていくことが重要であるし、何より被差別当事者自身に差別社会に対して問題提起を行い、然るべき取り組みを行う権力が付与されてしかるべきであるが、その前段階でも必要なことがある。
 それは、革命運動に従事する者自体が差別について学び、その克服に向けて取り組むことである。運動現場では、日本人中心、男性中心、健常者中心、異性愛者中心、シスジェンダーの人間中心に運動体が運営されていることが多く、差別問題への理解と関心が薄いことが多いのが事実である。革命後の社会において差別解消の取り組みをきちんと行っていくには、反差別闘争の蓄積と経験を共産主義者自身が積み上げ、何よりも被差別当事者で共産主義者となる者を獲得していかなくてはならない。当事者の声と利害が反映されてこそ反差別闘争は前進するし、それが革命後に差別社会を変革するための手がかりをプロレタリアートに与えるのである。

 



Copyright (C) 2006, Japan Communist League, All Rights Reserved.